沿革

長野県梓川土地改良区概要:沿革

 本土地改良区は、日本アルプスより流れる梓川の左右岸に古来より開けた水田地帯である。梓川水系の農業開発は、きわめて古い時代に始めたと云われ、松本盆地の一部に条理制水田の遺構があることからみても、すでに古来から人が住みつき、少なくとも部分的には稲作農業を始めたであろうと云われる。しかし、この地域で本格的に水田が開発されたのは、室町後 期以降であるといわれるが、用水路の開さくは時期不詳である。

 梓川の水を農業用水として使用するため、古くから14ヶ所の取水口があった。梓川は急流な河川であり、一雨降れば洪水となって牛枠は流出し、日照りが僅か続くと水不足となり、かんがい期間中常に水争いが繰り返されていた。上流から順次取水するため、下流における用水不足は、悲惨なものであった。特に江戸時代(文政・弘化年代)の紛争は江戸表での判決を受けることも数回あり多数の犠牲者を出した歴史を有している。明治時代となり同23年の水利組合法の制定に伴い農業用水の取水及び施設管理にあっては各堰共相次いで水利組合が組織され、これらの各堰は水利調整を図るため水利組合連合会を組織した。

 梓川本流を牛枠で締切っての取水施設は、流失と復旧の繰り返しと土石流入による取水困難、上下流の水争い等の解消をはかるため、大正15年から昭和6年にかけて、梓川から直接取水していた14の取水口を統合して、県営梓川農業水利事業により頭首工と、梓川左右岸に各堰の水路に連絡する幹線水路を造成した。しかし、この頭首工も梓川本流からの砂礫の流入が甚しく、取水は困難をきわめ砂礫排除作業をすれば長期間断水となり、下流地区に水不足を生じ、配水には非常に苦労しかんがいに支障をきたした。これがため新たな対策を迫られ、昭和18年県営農業水利事業として赤松頭首工の上流約3Kmの地点に新しい頭首工と、導水路を造成することとなった。

 昭和24年土地改良法の制定に伴い、昭和26年梓川右岸土地改良区、27年に梓川左岸土地改良区を設立、同年この両土地改良区によって梓川土地改良区連合を設立した。

 雪深い日本アルプスといえども夏の減水はいちじるしく、旱魃による被害は年々繰り返された。稲作のため安定した用水を悲願とする当時の梓川土地改良区連合は、上高地へのダム建設を目指して、昭和29年から新たな運動を展開し、関係機関の御尽力により、ダムは東京電力が建設することとなり、農林省は昭和41年本土地改良区の受益地に周辺受益地を加えた約10,700haを地域とした国営中信平農業水利事業が着工した。

 国営事業着工前の昭和39年には梓川左右岸土地改良区を合併して現在の長野県梓川土地改良区を設立した。昭和42年には、中信平農業水利事業受益地域内にある中信平右岸、中信平左岸、波田堰、黒川堰土地改良区と共に中信平土地改良区連合を設立して、本土地改良区は、その中心的存在となっている。国営事業は昭和53年度に、国営附帯県営事業は、平成2年度に完了した。

 現在は維持管理事業を中心に事業が営まれており、国営事業完了後は、役員定数の削減、賦課金事務の電算化、自動振替制度の導入、更には国営事業地元負担準備積立金、財政調整基金など有効に活用し、土地改良区運営の合理化と、組合員の負担軽減を積極的に進めるとともに、重複する土地改良区の吸収合併を再三行い組織の強化と、財政基盤の確立を目指した。

 しかし昭和25年に完成した新頭首工及び梓川隧道は、建設から50年が経過して老朽化が進んだため、平成12年に新たな国営事業の調査を開始した。平成17年度から国営中信平二期農業水利事業が始まり、頭首工を中心に前回の国営事業で造成した施設などの補修工事を含め平成25年完成を目指している。

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